無神論者な私だが、若い頃は、それなりに旧約・新訳聖書や仏典(スッタニパータ、ダンマパダなどから般若経や法華経)を読んだものである。
残念ながらコーランを読んだことは無いが…
そのような宗教書の文章の中には、時には素晴らしい表現もある。
聖書の中の「汝の隣人を愛せよ」や「何事も愛をもって行いなさい」などの言葉、生きている上で手本にしたいぐらいだ。
ただ、「神」などという証明不可能な存在を仮定しているがために、まったく説得力が無くなってしまっているように私には思う。
(なぜ、そのような行動規範に神が必要なのだ?)
そういえば、若いころ、太宰治の小説(「正義と微笑み」という青春小説)を読んだ時に、聖書からの引用で、
なんじら断食(だんじき)するとき、偽善者のごとく、悲しき面容(おももち)をすな。彼らは断食することを人に顕(あらわ)さんとて、その顔色を害(そこな)うなり。
という聖書の言葉が書いてあり、なんていい言葉なんだろうと思った。
ただ、続く言葉に
誠に汝(なんじ)らに告ぐ、彼らは既にその報(むくい)を得たり。なんじは断食するとき、頭(かしら)に油をぬり、顔を洗え。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在(いま)す汝の父にあらわれん為(ため)なり。さらば隠れたるに見たまう汝の父は報い給(たま)わん。
と書いてあって、非常にガッガリしたことを覚えている。
所詮は、良い行いを神様に見てもらうために、やっているだけなのね?
なぜ、ここに「神の存在(汝の父)」が出てくる必要があるのだろうか?
まったく必要ないじゃん?
と感じたものである。
多くの人はたまたま生まれた場所で信じられている神を信じている。もし生まれてくる場所が異なれば異なった神を信じているのだろう。
そのような神の存在を忘却の彼方に捨て去り、物事を考えると、(神が異なることによる)宗教間の争いがなくなり、行動するための規範を共有できるのに、と思えてならない。
月並みだが、異なった思想を尊重し、お互いを認めあって、理不尽な大量殺人のない世界にしたいものだ。
ドーキンスの以下の著書に、私のブログよりももっと説得力のある文章が載っている。
ついでに、太宰治の「正義と微笑み」が収録されている本も紹介する。清々しい青春小説である。